【ネタばれ有】
万人が手放しで絶賛する映画など存在しない。むしろ意見が別れない傑作などあっただろうか。
その時代に名を刻む “傑作” は得てして熾烈な議論を巻き起こす。傑作の魔力に取り憑かれると、論理的なディベートを超えた感情のぶつけ合いが起こることも珍しくない。逆に言えば、そうした議論を巻き起こす力を持った作品こそが “傑作” と呼ばれるのだ。
2019年10月4日(金)に公開された『ジョーカー』(原題:Joker)は、そういう意味でも “傑作” の定義に当てはまると言える。本作の評価は絶賛と酷評の2派に留まらず、実に多様性に富んだ意見であふれかえっていた。
現に私は『ジョーカー』鑑賞直後にこんな記事を書くくらいがっかりしていたのだが、映画好きの友人達と意見交換を行ううちに「確かにこれだけ議論できるって “傑作” だよな」と思うようになった。
そこで本稿では、私が見聞きした『ジョーカー』に対する様々な評価を紹介したい。かなりブッ飛んだ感想も含めて。
もちろん「最高に面白かった」とも「つまらなかった」とも思うことだって自由だし、今回紹介する諸々の意見に優劣など微塵も無い。ただ、多様な意見を通して「そういう見方もあったか」と新たな価値観に気付いて頂ければ幸いである。
絶賛派
『ジョーカー』の感想として最も多いのは、本作を称賛して止まない絶賛の声だろう。
観る者の感情に訴えかけてくるアーサー・フレックの不憫な境遇。彼の不幸を美しく切り取るシネマトグラフィー。そして不安を駆り立てる不穏な音楽。
これらに心奪われた方々は本作が描く世界に頭の先まで浸かり、放心状態で劇場を後にしたに違いない。
意見に優劣はないと言いはしたが、1,500円前後でチケットを購入して一番楽しめたのは絶賛派の方々だろう。正直羨ましい。
酷評派
どんな映画だって「そもそも何が良いか分からなかった」と置いてきぼりを食らう人は出てくる。
『ジョーカー』はアメコミらしくない作りで、鬱屈した社会を暗く描くアメリカン・ニューシネマを彷彿とさせる作風だ。この雰囲気が肌に合わないという方も少なからずいるだろう。
だが酷評だってひとつの価値ある評価だ。合わないものは合わない。人間なら当たり前の感情である。
部分否定派
私のように「傑作なのは分かるけど、何か気に入らない」と思われた方も意外と多かったようだ。
私が『ジョーカー』を鑑賞して感じた肩透かし感はレビュー記事で書き切ったので詳しくは語らないが、つまり「思っていたジョーカーと違う」という違和感だ。
ジャック・ニコルソンやヒース・レジャーが演じたジョーカーを信奉している人、もしくはアメコミで描かれてきたブッ飛んだなジョーカーが好きな人達が部分否定に陥りやすい印象だ。
願わくば、歴代ジョーカーの記憶を消してもう一度『ジョーカー』を見たいものである。
陰謀論派
部分否定派がそれでも『ジョーカー』に従来のジョーカーらしさを見出そうと躍起になった時、少し穿った見方にたどり着くことがある。
それは「この映画はジョーカーが撮影したという設定なのでは」とか「本作の物語はジョーカーが観客に信じ込ませたい “それらしい” 話で、全て精神病棟にいる彼の妄想なのでは」という陰謀論的な見方である。
確かに『ジョーカー』は現実と妄想の境目が曖昧な構成だし、作中に登場する時計が全て11時11分を指していたりと、本作で語られていることに裏が無いとは言い切れない。語り手があの “ジョーカー” なら尚更だ。
※残念ながら時計については監督が「偶然……だと思う」と否定している。
『ジョーカー』の監督であるトッド・フィリップス自身も「もしかしたら、アーサーが引き金となって皆の知っている “ジョーカー” が生まれるのかもしれない」と、本作のジョーカーが本物かどうか解釈が分かれる作りであると語っている。
彼は「いつか自分の解釈を披露するよ」とも言っているため、陰謀論派はその時を今か今かと待つことになる。恐らく『ジョーカー』を最も長い期間楽しめる――もしくは本作に苦しめられる――のは彼らだろう。
メタ絶賛派
絶賛派、部分否定派の中には「本作にまつわる議論にこそ意味がある」と、一歩引いた目線で本作を評価する向きもある。
格差問題や精神病患者の扱いなど現代が抱える闇を描いた本作を「社会的な問題提起」と捉え、本作を中心に議論を繰り広げることでこそ映画の真価が発揮されるとの考えだ。
この見方では、ベトナム帰還兵がPTSDに苦しむ姿を描いた『タクシードライバー』や、正義とは誰のためにあるのか問う『ゴーン・ベイビー・ゴーン』のような所謂「社会派映画」として『ジョーカー』を評価している。
注意喚起派
メタ絶賛派に近い意見ではあるが、「アーサー・フレックに感情移入するのは危険」と注意喚起を促す方もいる。
本作の物語はアーサー・フレックを軸としており、彼が不幸のどん底で活路を見出す姿は、ある意味王道的だ。
だが彼が見出した「這い上がり方」は殺人を含む反社会的な行為で、倫理的な観点から本来であれば決して賛同されるべきではない。アーサー・フレックに感化されるのは、自分が深淵に落ちそうな危険な状態であるとも言えるだろう。
アメコミ映画の皮を被った化け物じみた映画という見方だが、これはこれでジョーカーらしい映画として捉えることができる。
隠された問題へシフト派
本作で主に描かれているのは、格差社会がもたらす貧困と精神病患者の扱いだ。これだけでも社会派映画と名乗るに十分だが、中には「実は別の問題も隠されている」と感じる方もいるようだ。
その最たるものが「アーサー・フレックが黒人だったら物語が成り立たない」というニューヨーク・タイムズの評論だ。
上記評論では「1981年のゴッサム(と言いつつニューヨーク市)では、精神病を抱える黒人は社会から完全に無視されるホームレスになるだろう。決して富裕層への不満を体現する象徴にはなれなかっただろう」と語られている。
「ただし、警察からは黒人だからというだけで目を付けられる」と、アーサー・フレックが “白人” だったことが物語上重要なファクターだったとしている。
日本に住まう身としてはなかなか意識を向ける機会がない人種差別問題。本作の主となるテーマからは少し離れてはしまうが、こうした意見もあるのだと記憶に留めてもらえると嬉しい。
監督が一番ジョーカー派
多岐に渡る意見を紹介してきたが「監督が一番ジョーカーじゃね?」と思う方もいるようだ。
意見のすれ違いが行き過ぎると、終わりの見えない泥沼の戦争のような様相を呈すこともある。さながらヨーロッパの火薬庫をいよいよ爆発させた銃弾のような『ジョーカー』という劇薬を世に放ったトッド・フィリップス監督は、見方によっては一番ジョーカーだ。
とりあえずムラムラ派?
どんな意見にも等しく価値がある。その主張を曲げるつもりはない。しかし、多様な意見の中にはもう両手を挙げて「負けました」と言わざるを得ない攻撃力が高めなものもある。
アメリカのエンタメ系Webマガジン「The A.V. Club」が報じたところによると、ポルノ動画サイト「PornHub」で “Joker” と調べた人が後を絶たなかったらしい。
※The A.V. Clubは由緒正しいオンラインマガジンであって、決してAVのサイトではない。 “Audiovidual” の略である。
『ジョーカー』が公開されてから4日間で、PornHubでの "Joker" の検索数はなんと741,000回。一体どうなってんだ。
さすがのThe A.V. Clubも「とてもひん曲がった願望だが、『ジョーカー』の海賊版を探しているだけだと祈るしかない」と訳の分からないことを言っている。
健全な読者諸賢は、実際に検索すると何が出てくるのか調べたくなることだろう。もはや私は止めやしない。存分に欲望を満たすのです。
しかしまぁ人間の欲求において最も根本的な3大欲求にまで響くとは、さすが『ジョーカー』と言うべきなんだろう。多分。
まとめ
『ジョーカー』に対する評価は、大きく分けるとこれくらいだろうか。
先に述べた通り、読者の皆さんが「そういう見方もあったか」と新たな価値観に触れることができれば幸いだ。
ちなみに、何を隠そう私は「部分否定派」だったが、色々と聞いて回っているうちに「注意喚起派」へと落ち着いた。
これほど感情をかき乱された作品は滅多に出会えないし、色んな方と意見交換をして鑑賞後も長く楽しんだのも久しぶりだ。
読者の皆さんも、きっと「私は〇〇派だな」と落ち着く場所があるだろう。無かったら追記するので教えてください。
あなたが本作を通して何を感じても、それは等しく価値のある意見だ。ジョーカーの術中に嵌って戦争を起こすのではなく、「皆違って皆良い」の精神で今後も新たな意見が見出されることを祈って止まない。