正直に言おう。私は『ジョーカー』を観終わったあと、肩透かしを食らった気分になった。
バットマンの宿敵「ジョーカー」を主人公に据えた本作は2019年10月4日(金)に満を持して公開され、世界中で絶賛の嵐が巻き起こっている。
確かに主演ホアキン・フェニックスによる圧巻の演技や、アメリカン・ニューシネマを思わせる陰鬱な脚本、物語に深みを与えるシネマトグラフィーは世紀の傑作と評するに十分だ。
だが劇場を後にした私の頭には「この作品はジョーカーの話である必要があったか?」という疑問が残ることになった。
きっと読者の中には私と同じく悶々としている方もいるだろう。今回はそんな方々とモヤモヤを共有すべく、なぜ私に『ジョーカー』が刺さらなかったのか考察したいと思う。
そもそもジョーカーとは何ぞや
『ジョーカー』について語る前に、「ジョーカーとはどういうキャラクター(であるべき)なのか」を共有しておこう。
先に述べたように、ジョーカーとはバットマンの宿敵にあたるキャラクターだ。原作のDCコミックでは1940年代から「バットマン」シリーズに登場している。
※ジョーカーのキャラクターとしての生い立ちは、わかめ氏の記事で詳しく解説している。
80年間に渡って様々なクリエイターによって多様なジョーカーが描かれてきたため、「こうあるべき」と簡単に指さすのは難しい。
ただ、「ピエロを模した風貌」「他人をあざ笑うような行動」「誰にも理解できない思考」あたりのキャラクター性は一貫しており、ジョーカーをジョーカーたらしめる主な要素として挙げられる。
また、ゴッサム・シティにおいて群を抜いて異常な犯罪者だという点も忘れてはいけない。
暦に沿って殺人を犯すカレンダーマン、とにかく何でも凍らせてやろうと思っているMr.フリーズ、なぞなぞを出すついでに人を殺すリドラーなど、ゴッサム・シティには常軌を逸した犯罪者達が跋扈している。
その悪党達ですら足元に及ばない「他を寄せ付けない異常性」がジョーカーには備わっている。それこそジョーカーが唯一無二のスーパーヴィランである所以なのだ。
以上のことを踏まえて、ホアキン・フェニックスが演じた『ジョーカー』におけるジョーカーを考察していきたい。
「いつジョーカーが生まれてもおかしくない」は成り立たない
まず指摘したいのは、『ジョーカー』が掲げるテーマとジョーカーのキャラクター性との矛盾についてだ。
本作ではアーサー・フレックという金にも運にも恵まれなかった男がジョーカーに変貌していく姿を描いている。アーサーの恵まれなさときたら泣きっ面に蜂も良いところだが、私達の周りでも起こり得なくはない話だ。
『ジョーカー』の舞台となる70~80年代あたりのゴッサム・シティは現代のアメリカに通ずるところがある。本作で描かれる「特定の層にストレスや負担が偏っている」という歪な社会構造は日本人にとっても他人事ではない。
アーサーが直面する貧困や介護、身体障害は "アメコミ的設定" を排した、残酷なまでに身近な問題だ。
だからこそ、この映画を観て「今の社会では、いつジョーカーが生まれてもおかしくない」と感じるのは至極当然である。そう感じるように計算しつくされた映画なのだから。
だがその主張は本当に正しいのだろうか。社会構造の割を食っている人間の叫びを無視し続けるといつか爆発する、という部分はもっともだ。では「いつジョーカーが生まれてもおかしくない」という理屈も通るのだろうか。
筆者が鑑賞後に下した結論は、否だ。
先程も述べたようにジョーカーはコミック史においても群を抜いて異常なスーパーヴィランだ。「いつ生まれてもおかしくない」のはアーサーのような犯罪者のことであって、ジョーカーではない。
どこに居てもおかしくない存在は、「唯一無二のスーパーヴィラン」であるジョーカーのキャラクター性と矛盾するのである。
感情移入できてしまって良いのか?
とはいえ、アーサー・フレックに感情移入してしまう気持ちは痛いほど分かる。
そりゃあ、ただ生活するだけでも苦しいのにあれだけ不幸が重なれば、誰だって社会への反抗を企てたくもなる。ストレスの原因になる人間への殺意は、誰しもが一度は抱いた事がある幻想だろう。
と、ここで落ち着いて考えみたい。果たして「ジョーカーに感情移入できる」という状態は正しいのだろうか。
見方を変えて、もう少し分かりやすく分析してみよう。
作中でアーサー・フレックは証券マン、母親、ランドール、マレーなどの面々を殺した。そしてこれら殺人の動機はいずれも明白である。ここで問題なのは、ジョーカーの思考が観客側に完全に共有され、共感されていることだ。
この点は「誰にも理解できない思考」を持つはずのキャラクター性と矛盾する。
誰にも理解できないからこそ様々な形で "異常性" が描かれてきたわけで、誰でも理解(感情移入)できてしまっては "群を抜いた異常性" ではない。
作品のテーマだけでなく、『ジョーカー』で描かれるジョーカーの人物像そのものも、ジョーカーのキャラクター性と乖離してしまっているのだ。
アーサーは社会を笑えているか?
さて、ジョーカーの異常性を構成する要素のひとつとして、「他人をあざ笑うような行動」も挙げていた。
ジョーカーは人が命を懸けて下した決断を笑って一蹴するような人間だ。「右を向いた奴を殺す」と言っておきながら左を向いた者を殺して笑う輩、と言えば分かりやすいだろうか。
ジョーカーの悪意は、人間の価値観や社会全体の常識を笑うために作用する。そして彼の犯罪に込められた悪意は、被害者だけでなく第三者(バットマンなど)にも向けられていることが多い。
ところが『ジョーカー』で描かれた殺人は全て私怨によるものだ。彼は単にストレスの原因となる人間を排除したに過ぎない。
殺人を犯して笑ってこそいるものの、その笑いは "浅い" と言わざるを得ない。なぜならアーサーの殺人は彼と被害者達の閉鎖的な関係性の中で起きたもので、それ以上の意味を持たないからだ。
証券マンとマレーの殺害は暴動という二次的な影響を出しているものの、それはアーサーの "悪意" が引き起こしたものではない。アーサーの預かり知らぬ所で、ゴッサムの不満が運良く勝手に爆発したに過ぎない。
アーサーが暴徒と化した群衆に向かっていくら笑っていようとも、彼は何一つ社会を嘲笑うようなジョークは放てていないのだ。
どこにでもいる男性Aの話
「ジョーカーはこうあるべき」とまで言うつもりはないが、ジョーカーをジョーカーたらしめる大きな軸を失ってしまっては、それは別のキャラクターになってしまう。
人を簡単に殺すバットマンや、なぞなぞを出さないリドラーではキャラクター本来の魅力が引き出されないのと同じだ。どこにでも潜んでいるだろうアーサーに、私はついぞジョーカーらしさを見出す事ができなかった。
主人公が経験する感情の波も、作品を通して伝えたいテーマも現実的で普遍性を持っている。だがそれ故に、わざわざジョーカーを通して描く必要性はどうしても薄くなる。
想像してみて欲しい。『ジョーカー』のストーリーはそのままに、主人公がジョーカーではない別のキャラクターだったらどうだろう。主人公の職業や暴動に使われる小道具に差は出るだろうが、ジョーカーでなくても話が成立しそうなものだ。
『ジョーカー』はどこにでもいる男性Aの話であって、スーパーヴィラン「ジョーカー」の話としては説得力に欠けてしまう。
つまり「作品を通して伝えたいテーマ」と「テーマ伝達の媒介となる題材」の歯車が噛み合っていないのだ。この齟齬こそ、私が本作を鑑賞して肩透かしを食らってしまった原因だ。
本作に対する肩透かし感は、ジョーカーというキャラクターに理想を抱いていればいるほど大きいだろう。まさにアーサーがマレーに抱いていた幻想のように。
そして『ジョーカー』に対する絶賛の嵐を見ていると、私のように本作に違和感を抱いた方々が割を食うであろうことは簡単に予想がつく。『ジョーカー』のメッセージに賛同したはずの人々が、波に乗り切れなかった一部の人間を責めそうというのは、実に皮肉な話である。