【微ネタばれあり】
『スプリット』が2017年に公開された当時の衝撃は、今でもよく覚えている。
「最後にとんでもないどんでん返しがある」と謳われた同作は、サイコサスペンスとして秀逸な作品であると同時に “実は17年前に公開された映画と同じ世界” という空前絶後の種明かしをした。
しかも『スプリット』と世界を共にしている映画が、2000年に公開された傑作ヒーロー映画『アンブレイカブル』だったため、私を含めた世界中の観客は大いに沸いたのだ。
さらに、2019年にはその2作品の完結編となる『ミスター・ガラス』(原題:Glass)も公開するのだという。
ヒット作なら続編を作るのが当たり前になった昨今、「続編が出る」というだけで世界中が騒然とした作品が他にあっただろうか。今作でM・ナイト・シャマラン監督が仕掛けた19年越しのカタルシスは、人生でなかなか体験できることではない。
しかし私が本稿で説きたいのは、「前2作を観なくても、『ミスター・ガラス』を楽しめるのではないか」という仮説だ。
というのも、本作を鑑賞した方々の多くが「前作を観ないと楽しめない」と言うのである。世間様の流れに逆らう無謀な挑戦だが、どうかお付き合いいただきたい。
“前作を観ないと楽しめない” という呪い
続編というのは得てして「観客は前作を観ている」という前提で物語が構成されるものだ。新たな物語を紡ぐうえで、前回のおさらいなどをするのは大抵時間の無駄と見做される。
10年程前までは、それでも特に問題は無かった。物語につながりのあるシリーズなどは多くて5~6本だったし、「007」や「男はつらいよ」などの長寿シリーズは毎回物語が完結するので、どこから観ても十分に作品を楽しむことができた。
しかしMCU(※)の登場により、物語を共有する映画の本数が極端に増えるケースが生じ始めた。
※マーベル・シネマティック・ユニバースの略。いわゆる「アベンジャーズ」系列の作品群。
MCUの最新作『アベンジャーズ:エンド・ゲーム』は当ユニバースの総括となる映画なので、それまでの全21作品の物語を前提としている。1本の映画を完全に理解するために、21本の映画を観ておかなくてはいけないということだ。
MCUの成功を受け、様々な製作会社がMCUのようなユニバースを作ろうとしていることから、「前作を観ないと楽しめない」という呪いはさらにその手を広げていくことだろう。
『ミスター・ガラス』も、『アンブレイカブル』や『スプリット』の直接的な続編であるから、過去2作を鑑賞しないと物語を追えないと多くの人が言うのも当然かもしれない。
だが、本当にそうだろうか?
『ミスター・ガラス』のテーマ
前置きが長くなってしまったが、『ミスター・ガラス』は世に数多く存在する “続編” と同じく、前作を観ないと楽しめないと思われている……ということを改めて認識いただけたと思う。
だが、『ミスター・ガラス』を鑑賞済みの方は、本作の大きなテーマを思い出してもらいたい。
物語が進行する上で最大の謎は、『アンブレイカブル』のダン(ブルース・ウィリス)と『スプリット』のケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)の2人が「本当に人間を超えた存在なのか」という点だったはずだ。
物語の中盤、上記2人と『アンブレイカブル』で悪役だったミスター・ガラス(サミュエル・L・ジャクソン)が同じ精神病棟に送り込まれ、ひたすら「あなたたちは普通の人間だ」と刷り込まれる。
自分は特別な存在ではないのかもしれない――そうした考えが芽生え、疑心暗鬼に陥る彼らの姿(特にダン)が、終盤にかけて描かれるのだ。
過去作を観ている場合
私のように、『アンブレイカブル』『スプリット』両作品を鑑賞した上で『ミスター・ガラス』を観に行った人は、前章で述べたテーマに本腰を入れてのめり込むのは困難だ。
なにせ2作品分……4時間近くも「彼らは人を超えた存在だ」と説得され続けたのだ。心のどこかでは、「彼らは本物だ」と信じながら『ミスター・ガラス』に臨むはずだ。
幾ら本作の議論が巧妙でも、ダンやケヴィンの味方をしてしまうし、彼らが弱気になった時に淡い疑念こそ抱けど、「この状況を打破してこそヒーロー映画だ」と期待してしまう。
表面的に信心が揺れることはあるが、心の奥では彼らが本物だと信じている。つまりは、ダンやケヴィンたちの目線で本作のテーマを捉えていることに他ならない。
過去作を観ていない場合
一方、前2作を観ていない場合、彼らが “本物” であるかを判断する手掛かりは、序盤の戦闘シーンしかない。
廃屋で取っ組み合いになるダンとケヴィン。ダンが怪力を見せたり、ケヴィンが天井を這ったりはするものの、「人間を超えた存在か?」と言われると説得力に欠ける。MCUのようなスーパーヒーロー映画に慣れている観客ならなおさらだ。
しかし、これだけの情報しか無いとなると、かえって公平な目で彼らを観ることができるのではないだろうか。
彼らの主張にも耳を傾けるが、「特別な存在などいない」と諭す精神科医の話にも説得力を感じてしまう。そこには、「きっと彼らは」という先入観にも似た希望は無い。
つまり過去作の物語を知らない場合、完全にフラットな視点で本作のテーマに挑むことができるのだ。映画の世界に居るであろう大衆と、全く同じ目線で。
それはそれで、前2作を観た人には感じ得ない形で『ミスター・ガラス』を鑑賞できるのではないだろうか? なんなら私も、前2作の記憶を消して本作を鑑賞してみたいものである。
まとめ
そもそも私がこの珍説を思い付いたのは、SNS上で「前2作を観ていないと絶対楽しめない!」と言っている方が多かったからだ。
果たしてそうかね、と考えあぐねている内に、もしかすると未見は未見なりの楽しみ方があるのかも……と思い付いた次第である。
そしてM・ナイト・シャマラン監督なら、そこまで計算づくでやってのけるのではないか、という信頼の賜物でもある。
もちろん本作の細かい描写には、『アンブレイカブル』『スプリット』への繋がりを示唆するものも多い。そうした小さな発見は、前2作品を鑑賞していないと気付くことはできないだろう。
だから、「前2作を観ていないと本作を100%楽しむことはできない」という言い方が恐らく正しい。
もしあなたの周りに『ミスター・ガラス』を観ようか迷っている方が居たら、「前2作を観て!」と鑑賞のハードルを上げるのではなく、とりあえず『ミスター・ガラス』観るように薦めてあげて欲しい。
一度ハマったら、放っておいてもシャマラン沼に引きずり込まれるだろうから。