コラム

『ハリーポッターとアズカバンの囚人』の人間模様からみえる理想の友人とは

2019/01/11

© 2005 Warner Bros. Ent. Harry Potter Publishing Rights J.K.R.

【ネタばれ有】

この世界に永久に変わらないものなんてあるのだろうか。時が経てば何かが変わる。それは物の老朽化であったり、流行り廃りであったり、身近なところでいえば人間関係だろう。

映画においては、物語が進めば登場人物の関係性は良い方向にも悪い方向にも変化をおこす。これは私たちが生きている世界でも日常的に起こるものである。

世界的大ヒット作品であるハリーポッターシリーズの第3作目にあたる『ハリーポッターとアズカバンの囚人』では、ハリーの両親をヴォルデモートに売った犯罪者「シリウス・ブラック」が監獄所から脱走し、ハリーを殺そうとしていると魔法界は大騒ぎ。

しかし、実はブラックは犯罪者でもなければ、ヴォルデモートにハリーの両親を売る非道な人物でもなかった。

ハリーにとっては、ホグワーツでの学校生活も3年目に突入。いつもの3人組の中の2人、ロンとハーマイオニーの関係には何かが訪れている一方で、マルフォイは相変わらず手下を引き連れて小悪党をきどっている。

明かされるハリーの父親「ジェームズ・ポッター」とその学友達。友情が憎悪に、友情が恋心にと様々な気持ちの変化をみせる本作で、友達ってなんだろうと今一度考えてみようと思う。


友達ってなんだろう

さて、もう死語になっているかもしれないが、私は一時期 “ずっ友” という言葉をSNSなどで頻繁に目にしていた。

初めてその言葉をみた時、背筋が凍り付くという表現ではすまないくらいに、冷めたなにかを感じた。言葉自体に嫌悪感を感じたわけではない。その発言した本人が言葉の意味を理解しているようには見えなかったのだ。

ずっと友達でいようと言えるような間柄の人がいることは、非常に良いことだと思う。しかし、その中身は一体どうだろうか。

ただ楽しい時間を共有している間だけそう思うのかもしれないし、そのような間柄なのであれば、わざわざSNS上でアピールする必要があるのか疑問である。

第三者に「私たちはとても仲が良いです」と表現したいがために、その言葉を使っているようにみえてならないのだ。私としては、そう思う相手にこそ気軽にそのような言葉は使わないものだと思っている。親しいからこそあえて言葉にしないのだ。

人間関係においてどれだけ仲がよく、この関係が永久に続けばと思う人と出会っても、なにかの拍子にそれが変化してしまうこともある。それは決してネガティブな要素だけではなく、時にはポジティブなものの場合もある。

具体的な例でいえば、進路が別々になってしまって気がつけば疎遠となってしまうことが挙げられるだろう。

友情とはずっと続くからいいというわけではない。短い期間でもかけがえのない友人関係を築くことができたのであれば、それは人生におけるとても大切な財産となるはずだ。

そもそも私は友達という言葉をすごく曖昧なものだと感じている。

なぜなら、恋人などとは違って片思いが成立するからだ。本人は友達だと思っていても、相手はそうは思っておらず、すれ違いが起こることがある。今回のジェームスとピーターのように。

そもそも友達とはなんだろうか。一緒にいて楽しいから友達だという人もいる。では、もしその友達と苦しい局面に遭遇したらそれは友達ではないのだろうか。

今回の映画ではマルフォイとクラップ、ゴイルの関係性は友達より親分と子分のようなものにみえ、ロンとハーマイオニーは異性であるがゆえに友達から一歩進み恋愛感情が芽生えていた。

そんな中で私は「シリウス・ブラック」と「ジェームス・ポッター」のような関係性こそが理想の友人関係だと思った。彼らは ”ずっ友” という言葉を使うにふさわしい関係性である。

マルフォイと愉快な仲間たち

© 2005 Warner Bros. Ent. Harry Potter Publishing Rights J.K.R

ハリーポッターシリーズでハリーの学校生活での敵役としてマルフォイはこの物語に登場している。嫌がらせをするのが趣味でいつも手下を連れ歩いている、絵にかいたような小悪党だ。

そんなマルフォイだが、作品をみている限り、残念ながらこれといって手下に慕われるようなタイプには全くみえない。

本作においてもハグリットの授業でバックビークにちょっかいをかけて怪我した挙句、医務室で「ママ、ママ」と呻き、親に頼んでバックビークを処分してもおうする。

物語終盤でそのバックビークの処刑を見学にいこうとしているところをハーマイオニーにみつかり、顔にパンチを叩き込まれ逃げている。

なぜマルフォイの取り巻き連中はそんな彼をリーダーとして扱っているのだろう。私なら怪我をして母親を呼んだり、女の子に殴られて逃げるような人についていこうとは思わない。

作品の中でみることができるマルフォイの魅力としては、血筋がよく、お金持ちということである。

もちろんその魅力に惹かれて人が寄ってくるということは理解できるが、前述したような件が起きても盲信したかのようにマルフォイについていくクラップとゴイルに、違和感を覚えずにはいられない。

考え方を変えてみよう。クラップとゴイルはマルフォイを慕ってついていってるわけではなく、彼を一人にしておけないという母性本能から一緒にいるのだと考えると少しは納得がいく。一見マルフォイが親分のようにみえるが実は逆だったのだ。

“友情”とは縁がなさそうなマルフォイだが、もしかすると一番友情に支えられているキャラクターなのかもしれない。

友情から恋心へ

過去2作品でロンとハーマイオニーはただの友人であった。しかし、本作ではところどころに恋心を感じる場面を拝むことができる。

ハリーがバックビークとコミュニケーションを取ろうするシーンでは、お互いの手が触れあってすこし気まずそうにしている。

また、ハリーは保護者のサインをもらえないため、みんなとホグズミードにお出かけできないのだが、その隙にロンとハーマイオニーは2人の時間を過ごすことになる。

年頃の男女が同じ時間を過ごせば、それがただの友達で終わらないことは多々ある。とくに恋心というものは、意識していなくても芽生えてしまうこともある。そして一度芽生えてしまうと以前の感情に戻すことは難しい。

そんな甘酸っぱい恋愛模様に一つ疑問がある。ロンとハーマイオニーはお互いどこに惹かれあったのかだ。確かに1年生のころからハリーを中心に騒動に巻き込まれているので吊り橋効果があったのかもしれない。

2人は騒動には巻き込まれるが主人公ではないため、騒動の中心にいることは少ない。そこにいるのはいつもハリーである。

そんなハリーに対して2人は心配をしたり、力を貸したり喧嘩をしたりと本当の兄弟かのように接している。この似たような境遇が共通点となって恋心を芽生えさせたのかもしれないと考えることはできる。

本作では恋心が芽生えてきただけで、まだお互い自覚はしていない状態である。この2人の関係が今後どう変化していくかも本シリーズの楽しむポイントの一つである。

© 2005 Warner Bros. Ent. Harry Potter Publishing Rights J.K.R.

友情か死か

ハリーの父親である「ジェームズ・ポッター」とその仲間たちである「リーマス・ルーピン」「ピーター・ペティグリュー」そして「シリウス・ブラック」。本作では死没しているジェームズ以外は全て登場し、彼らが物語のカギを握っている。

彼ら4人は学生時代とても仲が良く、いつでもどこでもなにをするでも一緒だった。きっとだれがみてもこの4人はいつまでも友達に違いないと思ったはずだ。それくらい仲がよくてもやはり、すれ違いは起こってしまう。

ホグワーツを卒業後、4人は続編のタイトルにもなっている不死鳥の騎士団に属している。そこでヴォルデモートに抵抗していたのだが、あることを理由にジェームズとその妻であるリリーの命が狙われてしまう。

そこでジェームズを守るため、ピーターはポッター家の秘密の守り人となった。しかし、映画を見た人はご存知の通り彼は裏切り、ポッター夫妻をヴォルデモートに売ってしまったのだ。

映画の終盤でこのことをシリウスから問い詰められ、そのときにピーターは「喋らなければ自分が殺されていた」と述べたがすぐさまシリウスに「友を売るくらいなら死を選ぶ」と返されなにも言い返せなくなってしまっていた。

このことからピーターにとって友情よりも生が大事で、シリウスにとっては生より友情だったのだ。

今回の話のように生死までとはいかずとも、友達の苦境に対して自分が不利益を被っても力を貸してあげられる関係性が、私にとってはとても理想的な友人関係にみえた。

永久に変わらない友達関係があるかどうかはわからないが、もし築けるのだとすれば私はジェームズとシリウスのような関係性を築きたいと強く思う。

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

Sabot House 編集部

「もっとサボろう、映画を観よう」をモットーに映画をより面白く観るためのWebマガジンも運営中。Twitterでは、映画に登場するアイテム・グッズを1日1回紹介しています!

-コラム
-, , , ,

Copyright© Sabot House , 2024 All Rights Reserved.